想うはあなたひとり 《1》サラサラと、桜が風に舞う音が聞こえ、藍忘機はそっと襖を開けた。上着を羽織り、庭へと出みると、桜の木の近くに植えられている白木蓮の花が満開になっていた。 “魏嬰、この木が大きく育ったら、ここで花見をしよう。” “わかった。” あの日、そんな約束をしていた愛しい伴侶は、もう鬼籍に入ってしまった。 彼だけではなく、かつて熱い志を持ち、共に学び夢を語り合った友達は、皆自分だけを置いて、常世へと旅立ってしまった。 “藍湛!” 白い花弁の向こうに、愛しい伴侶の笑顔が見えたような気がした。 「魏嬰、会いに来てくれたのか?」 “当たり前だろ!” 「やっと・・」 白い花弁に藍忘機は覆われ、やがてその姿は見えなくなっていった。 「含光君、お食事をお持ち致しました。」 藍景儀が師の部屋を訪れると、そこの主は居らず、彼は白木蓮の根元に倒れていた。 「そんな・・」 景儀が師の死を嘆き悲しんでいると、彼の頬を誰かが優しく撫でられたような気がした。 ふと景儀が顔を上げると、そこには自分に笑顔を浮かべている魏無羨の姿があった。 「魏先輩・・」 彼の笑顔を見て、景儀は全てを悟った。 「そうか、忘機が・・」 「とても、安らかなお顔をされておりました。」 「きっと、魏公子が迎えに来てくれたのだろうね。そんなに悲しむ事はない、いつかわたし達も、黄泉へ旅立つ日が来るのだから。」 藍曦臣は、そう言うと青空を仰いだ。 「これは・・」 「これは、忘機の日記だよ。」 藍忘機の四十九日の法要が終わり、景儀と曦臣が彼の遺品を整理していると、桐箱の中に三十冊もの日記帳を見つけた。 「彼は、幼い頃から日記をつけていたよ。」 「そうですか・・」 「一番古いものは、忘機が六歳の頃に書いた物だね。」 日記を曦臣が頁を捲ると、そこから微かに白檀の香りがした。 そこには、ただ一行だけ書かれてあった。 “母上が死んだ。” 「ああ、何という事・・」 「お子様方はまだ幼いというのに・・」 母が長患いの末にこの世から去ったのは、藍湛が六歳の時だった。 「若様、早く中に入りませんと、お風邪を召されますよ。」 「母上がここへ帰って来るのを待ちます。」 「いけません・・」 乳母が慌てて藍湛を屋敷の中へ入れようとしたが、彼は頑として正門前に座り込み、その場から動こうとしなかった。 その日から藍湛は、毎日屋敷の正門前で母の帰りを待ち続けるようになった。 「藍湛、こんな所に居ては風邪をひいてしまうよ。」 「兄上、母上は・・」 「母上はもうわたし達の元へ帰られる事はない。けれども、母上の魂は常にわたし達の傍にいらっしゃる。」 「うわ~ん、兄上!」 「うんうん、良く我慢したね。」 泣きじゃくる弟の小さな背を、藍渙は彼が泣き止むまで優しく撫で続けた。 「そんな事があったのですね?」 「あの子はまだ六歳・・母の温もりが恋しい年頃だった。さてと、次の頁を捲ろうか。」 「はい・・」 次の頁は、最初の頁よりも文字数が多かった。 「おや珍しい。あの子は無口で何を考えているのかわからなかったが、日記には色々と書いていたようだね。」 「あ、何か落ちましたよ。」 景儀は、そう言って床に落ちた紙を拾い上げた。 そこには、藍湛の―十代の頃の彼が、美しく描かれた墨絵だった。 「これは、魏先輩が・・」 「まだ、持っていたんだね。」 藍渙は目を閉じ、藍湛と魏嬰が初めて会った時の事を思い出していた。 姑蘇藩は、初代藩主の御世から、将軍家に忠誠を尽くして来た。 そしてそれは、“家訓”として代々藩主に伝えられ、いつしか姑蘇藩は武芸に秀でた藩となった。 姑蘇藩は、藩士達の教育に力を注いだ。 “雲深不知処”と呼ばれる藩校では、藩士の子供達が数え六つの頃から通い、そこでは毎日、“什の掟”を叩き込まれていた。 一.年長者の言ふことに背いてはなりませぬ 一.年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ 一.卑怯な振舞をしてはなりませぬ 一.弱い者いじめをしてはなりませぬ 一.戸外で夫人と言葉を交へてはなりませぬ ならぬことは、ならぬものです 幼き頃からこの掟を叩きこまれている子供達は、性別、年齢問わず団結し、年長者は年少者を守り、年少者は年長者を敬った。 やがて“雲深不知処”の教育は他藩にも知られる事となり、姑蘇藩士の子弟のみならず他藩の子供達が“留学”に来るようになった。 「急に賑やかになりましたね、兄上。」 「あぁ。今年も他藩の子供達が来たようだね。忘機、くれぐれも彼らと争いを起こさないように。」 「はい・・」 藍湛は兄からそう釘を刺され、彼は平穏無事な生活を送ろうと、己の胸に誓ったのだった。 しかし、彼は一人の少年と運命の出逢いを果たした事により、その後の人生が大きく変わる事になった。 「あ、お前もしかして藍の二の若様か?俺は・・」 「魏無羨、お前授業を抜け出してこんな所に・・」 「じゃ、またな!」 その少年―魏無羨は、赤い髪紐を揺らしながら、まるで嵐のように藍湛の前から去っていった。 「あの子は?」 「申し訳ございません、あいつは俺の義兄で魏嬰と申します。俺は・・」 「雲夢江藩の江楓眠様のご嫡男、江澄様ですね。」 「た、沢蕪君!」 「そんなに緊張しないでくれ。わたしは偉くも何ともないのだから。」 「は・・」 「それにしても、君の連れは不思議な子だね。忘機の心をすぐに掴んでしまう。」 「あいつは、問題児です。いつも父上や母上を困らせてばかりで・・」 「彼と忘機は、良い友になりそうだな。」 「さぁ、それはどうだか・・」 江澄は、そう言って溜息を吐いた。 魏嬰は、無口な藍湛とは対照的に、良く喋った。 「なぁ藍湛、いつも小難しい顔をして何の本を読んでいるんだ?」 「君には関係ない。」 「そうか。」 江澄は、藍湛に執拗につきまとう魏嬰の姿を見た途端、慌てて藍湛の元から引き離した。 「お前、いい加減にしろ!来て早々問題を起こす気か!?」 「そんなに目くじら立てるなよ、江澄。俺はただ、藍湛と仲良くしたいだけだよ。」 「仲良くしたいだと?藍の二の若様はお前を迷惑がっているように見えるがな。とにかく、余り問題を起こすなよ!」 「はいはい、わかったよ。」 自分の忠告を魏嬰が素直に聞く筈がないという事を、江澄はその身をもって知っていた。 案の定、魏嬰は“雲深不知処”に入校してから色々と問題を起こした。 その度に江楓眠が“雲深不知処”を訪れては、義理の息子に対する己の躾の足りなさを藍啓仁に詫びたものだった。 だが当の本人はどこ吹く風で、自由気ままに過ごしていたのだった。 「全く、何だってあいつは問題ばかり・・」 「いやぁ、この前の魏先輩の太刀さばきは凄かったですね。」」 そう言って扇子で口元を隠しながらひょっこりと江澄の前に姿を現したのは、魏嬰の悪友・聶懐桑だった。 「その口ぶり、何か知っているようだな?」 「これ、わたしから聞いたって、魏先輩には言わないでくださいよ?」 懐桑は軽く咳払いすると、数日前に起きた事を話した。 それは、魏嬰達が入校して数日後の子だった。 その日、魏嬰達は姑蘇の城下町・彩衣鎮を散策していた。 「へぇ、美味い物あるんだなぁ。ひとつ貰おうか?」 「魏先輩、そんなに食べるんですか?」 「だって、藩校の食事、みんな薄味で食えたもんじゃないぜ!」 「まぁ、確かに・・」 「それよりも、藍湛はどうして俺の事を嫌うんだろうなぁ?俺は仲良くしたいのになぁ。」 「魏先輩がしつこいからじゃないですか?あんまり強く押すよりも、一旦引いた方がいいですよ。」 「そうか~?」 茶屋の軒先で魏嬰達が団子を食べながらそんな事を話していると、突然向こうから甲高い女の悲鳴が聞こえて来た。 「何でしょう、今のは?」 「行くぞ!」 魏嬰達が、悲鳴が聞こえて来た方へと駆け付けると、そこには数人の男達が一人の少女を取り囲んでいた。 「お前ら、一人相手に弱い者いじめか?姑蘇藩士の名が廃るぜ!」 「うるせぇ、すっこんでろ餓鬼」!」 激昂した男の一人が、そう叫ぶと魏嬰に持っていた棍棒で殴りかかろうとしたが、魏嬰はそれをひょいと躱した。 「俺は、弱い者いじめをする奴が大嫌いなんだよ!」 魏嬰はそう叫ぶと、男の手から棍棒を奪い取り、怒号を上げる男達と戦い始めた。 五対一という劣勢だというのに、魏嬰は男達の攻撃を難なく躱し、棍棒一本で彼らに立ち向かっていった。 「凄ぇ・・」 「魏先輩、頑張れ~!」 「お前ら、突っ立ってないで力を貸せ!」 「おう!」 それから、魏嬰達の大立ち回りが始まり、野次馬が次々とその騒ぎを聞きつけてやって来た。 「お前ら、一体何をやっている!」 運悪く、騒ぎを聞きつけた奉行所の役人達が魏嬰達の元へ駆けつけ、“雲深不知処”にその騒ぎが届く事になった。 「全く、お前達はロクな事をしないな!」 「藍先生、お言葉ですが俺達はゴロツキに絡まれていた娘を助けただけです!」 「そうですよ、あの娘さん、わたし達が助けなければ今頃どうなっていたか・・」 必死に魏嬰達が藍啓仁に対して抗議の声を上げたが、魏嬰達は七日間の謹慎処分を受けた。 「納得いかねぇ、悪いのは向こうなのに!」 「魏先輩、さっさと罰則の書き取りを済ませましょうよ。」 「あ~、腹立つ!」 藍啓仁が魏嬰達に課した罰則は、“姑蘇藩什の掟を千回書き取りする事”だった。 「何だって、こんな事・・」 「魏先輩・・」 「君の自業自得だ。少しは慎みを身につけなさい。」」 「何だよ~、慰めてくれないのか?」 魏嬰はそう言うと、様子を見に来た藍湛に抱きついた。 「恥知らず!」 「魏先輩、まぁた藍の二の若様にちょっかい出してるよ。」 「若様も気の毒に。」 「でも若様の方もまんざらではない様子でしたよ?」 懐桑がそんな事を言いながら書き取りをしていると、廊下の方から誰かが言い争っているかのような声が聞こえて来た。 「何故、我が藩が京都守護職を・・」 「初代藩主の御世から、我が藩は将軍家に仕える身なのだ。」 「ですが叔父上・・」 「これはもう、決まった事だ。」 「そんな・・」 雲夢の夏は蒸し暑いが、姑蘇の夏はうだるような暑さだった。 「あ~、暑い!」 魏嬰は夏の暑さを凌ぐ為、彩衣鎮の郊外にある川で水浴びをしていた。 「はぁ~、やっぱり暑い日には水浴びが一番だよな~」 魏嬰がそんな事を言いながら川の中を泳いでいると、そこへ藍湛がやって来た。 彼は下帯一枚の姿の魏嬰を見ると、眉間に皺を寄せた。 「あ、藍湛!」 「はしたない!」 「何だよ、そんなに目くじら立てなくてもいいだろ?あ、お前も入るか?」 「わたしはいい。」 「遠慮するなって!同じ男同士、恥ずかしがらなくてもいいだろう?」 「止めろ!」 藍湛は魏嬰に半ば強引に川の中へと引き摺り込まれ、着物と袴が濡れてしまったので、思わず魏嬰を睨みつけた。 「君の所為でびしょ濡れだ!」 「はは、水も滴るいい男じゃないか!」 「うるさい!」 川での出来事以来、藍湛と魏嬰の関係は良くなるどころか、悪化してしまった。 「お前、また何をやらかしたんだ?」 「ちょっと強引に水浴びに誘ったのに、あいつ着物が汚れたから怒って来てさ・・」 「当然だろう!お前、京に着くまでおかしな事をするなよ!」 「はいはい、わかっているよ!」 姑蘇藩主・藍曦臣が京都守護職に就任し、藩士らを引き連れて上洛したのは、夏が過ぎ、厳しい冬の事だった。 「ひぃ、寒い!」 「うるさい、黙って歩け!」 「こんなに寒いのに、何であいつは涼しい顔をしているんだ?」 「うるさい!」 「寒いから黙っていられないじゃないか!」 「全く、この先が思いやられる・・」 「どうしたんだい忘機、少し嬉しそうだね?」 「いいえ、何でもありません。」 だが、この時藍湛の心の中では小さな漣が起きていたのだった。 遠く姑蘇から京までやって来た藩士達が頭を悩ませたのは、京の複雑な裏道だった。 「一体何処がどう繋がっているのか、全くわからん!」 「そうだな。」 「それよりも江澄、少し腹が減ったな。」 「お前、今どんな状況なのかわかっているのか!?」 「どこだろうなぁ、ここ。」 魏嬰はそう言うと、傘をさしながら乾いた声で笑った。 二人は、いつの間にか他の藩士達とはぐれてしまい、雪降る京で迷子になってしまった。 「あ~寒い。なぁ江澄、あたためてくれよ!」 「やめろ、気色悪い!」 「そこのお武家はん、こちらへどうぞ。」 「は~い!」 「おい、勝手に行くな!」 寒さと空腹に耐えかねた魏嬰は、近くの和菓子屋へと駆け込んだ。 「お汁粉どうぞ。」 「ありがとうございます。」 「こんな寒い中、あんまり歩き回ったら風邪ひきますえ。」 「いやぁ、今日京に来たばかりで、道が全然わからなくて・・」 「そうどすか。お武家はんらは、どちらの・・」 「姑蘇です。」 「へぇ、姑蘇藩の方々ですか。京の道は細くて狭い道が多いさかい、迷うのは当然ですわ。」 「お待たせしました。」 「うわ~、美味しそう!」 「どうぞ、熱いうちにお召し上がりください。」 「いただきます!」 魏嬰がお汁粉を食べていると、そこへ眉間に皺を寄せた藍湛が店に入って来た。 「ここに居たのか・・」 「よぉ、お前も食べるのか!」 「皆がお前達を探していた。早くここから出よう。」 「え~、今来て食べているのに!そんな固い事を言うなよ~」 「あら、あちらのお武家様は?」 「俺達の連れです!」 「まぁ、えらい別嬪さんやねぇ。さ、お汁粉をどうぞ。」 「私は・・」 結局、藍湛は魏嬰達とお汁粉を食べた。 「支払いは・・」 「わたしが払う。」 魏嬰はそう言うと、藍湛に抱きついた。 「恥知らず!」 「何だよ~、そんなに怒る事ないじゃん~」 「おいやめろ、藍の二の若様が困っていらっしゃるだろう!」 江澄は慌てて藍湛にしがみついて離れようとしない魏嬰を彼から引き剥がした。 「すいません、後でこいつに厳しく言い聞かせておきますから!ほら、行くぞ!」 「藍湛、またな~!」 「君達を、私は迎えに来たのだが・・」 「あ、そうだったな!」 色々とあったが、魏嬰達は藍湛と共に黒谷にある金戒光明寺へと辿り着いた。 「遅かったね、忘機。」 「兄上、申し訳ありません。この者達を迎えに行っておりました。」 「そうだったのか。」 その夜、曦臣達姑蘇藩士達は、島原で有志達が開く宴に招かれた。 「遠くからはるばるお越し下さっておおきに。ほな、これから親睦を深める為に、一杯どうぞ。」 「かたじけない。」 「それにしても、姑蘇藩の方々は皆様美男子でいらっしゃいますなぁ。」 「そうですか。わたし達はそのような事は思っていないのですが・・」 「まぁ、ご謙遜を。」 曦臣と八木源之丞がそんな事を話していると、隣の座敷から悲鳴が聞こえて来た。 「一体、何があったんや!?」 「長州のお客様が、太夫に絡んで・・酔って手がつけられへんのどす!」 「そうか、では様子を見に行ってみよう。」 「はい、兄上。」 「お客様、危険です!」 曦臣と藍湛が隣の座敷へと向かうと、そこには割れた皿や猪口、膳などが転がり、その隅には泥酔した男と太夫が対峙していた。 「何度言われても、うちは芸を売っても身は売りません。」 「何を言うがか、男に愛想を振る舞うのがお前の仕事やろうが!」 「おやおや、女子一人に手を上げようとするとは、武士の風上にも置けませんねぇ。」 「何じゃ、貴様!?」 泥酔していた男がそう叫んで曦臣に殴りかかろうとしたが、その前に彼は曦臣に手刀を打たれ、気絶した。 「お怪我はありませんか?」 「へぇ、おおきに。」 そう言った太夫は、自分の命を救ってくれた曦臣に礼を言った。 「凄いお人や、誰もかなわんかった人を一撃で・・」 「それに、えらい男前やわぁ。」 島原での藍曦臣の武勇伝は、後世にわたって多くの人々により語り継がれる事になった。 上洛して一月後、藍湛と曦臣は帝に謁見した。 ―なんとまぁ・・ ―お二人共美しいこと・・ 二人は帝から、緋の御衣を下賜された。 「藍湛、主上はどんなお方だったんだ?」 「それを君が知る必要は、ない。」 「何だよ~、少しは教えてくれたっていいじゃねぇか。」 「君が居ると気が散る。」 「もぉ~、冷たいなぁ・・」 いつものように藍湛が中庭で剣の鍛錬をしていると、そこへ魏嬰がやって来て、話し掛けて来た。 彼を無視して剣の鍛錬をしてきた藍湛だったが、彼の所為で集中できなかった。 「どうしたんだい忘機、少しぼーっとして・・」 「中々眠れなかったものですから。」 「そうかい。余り魏公子の事は嫌いにならないでくれ。」 「そう言われましても、わたしは彼の事がわからないのです。何故、彼が私にまとわりつくのか・・」 「わからないのなら、わかり合えるまでお互いの事を知る努力をすればいい。」 「兄上・・」 「お前は昔から、他人と接するのが下手だからね。だから、魏公子と仲良くして欲しいとわたしは思っているんだよ。」 「わかりました。」 兄からそう言われたが、藍湛は魏嬰とどう接すればいいのかわからなかった。 「なぁ江澄、俺藍の二の若様に嫌われたのかなぁ?」 「そんなの、京に来る前からだろうが。」 江澄は弓の手入れをしながら、魏嬰の愚痴を聞き流していた。 「俺、あいつに嫌われるような事をしたかなぁ?」 「今まで藍の二の若様に、お前はしつこく付きまとっていただろう!」 「あ、そうだったか?」 「本当に、お前はもう・・」 義兄の言葉を聞いた江澄は、そう言って頭を抱えた。 「おい魏嬰、お前本当に覚えていないのか!?」 「う~ん、思い当たる節がないなぁ。それよりも、島原で見た太夫さん達綺麗だったよなぁ。“東男に京女”とは、良く言ったもんだよなぁ。」 「あぁ。」 「あ、そうだ今度二人で島原に行かないか?」 「俺達のような平藩士が簡単に行けるような場所じゃないだろう。」 「え~」 「え~、じゃないだろう!」 そんな事を二人が話していると、丁度そこへ藍湛が通りかかった。 「あ、藍湛、お前も今度島原に行くか?お前だったら、すぐに可愛い子が寄ってくるぞ!」 「行かない。」 「行こうぜ、絶対楽しいぞ!」 「行かない。」 「お前、いい加減にしないか!」 江澄は慌てて止めようとしたが、無駄だった。 「何だぁ、蘭の二の若様は俺に興味がないのか?あ、だったら俺にしないか?いつでも相手にしてやるぜ?」 「この、恥知らず!」 藍湛は顔を赤くしながらそう叫ぶと、そのまま去っていった。 「あ~あ、また嫌われちゃったよ。」 「嫌われるような事を言うからだ!」 「すいまへん、誰か居りませんか~?」 江澄と魏嬰がそんな事を言い合っていると、正門の方から若い女の声がした。 二人が正門の方を見ると、そこには一人の女が立っていた。 髪は割れしのぶに結われており、着物は薄紅色の麻の葉文様のものを着ていた。 「あの、何かご用でしょうか?」 「うちは、島原の揚羽屋の女中で、きぬと申します。」 きぬは、島原の揚羽屋からの使いで、先日太夫の命を救って貰ったお礼として、藍曦臣と藍忘機の二人を今夜揚羽屋に招待してもてなしたいのだという。 「申し訳ありませんが、只今兄は外出中でして、いつ戻ってくるのかわかりません・・」 「そうどすか・・」 「あれ、あんた昨夜揚羽屋で見た・・」 「申し訳ないのだが、そちらのご厚意に甘える訳にはいきません・・」 「しかし・・」 「え、なになにどうしたの?」 魏嬰はきぬから揚羽屋の件を知り、揚羽屋からの招待を断ろうとする藍湛を押し退け、きぬにこう言った。 「喜んでご招待をお受けします!」 「お前、何言って・・」 「だって、こんな可愛い子ちゃんがわざわざ招待してくれているんだから、断るなんてもったいないだろ!」 「わたしは・・」 「丁度島原に行きたかった所だから、願ったりかなったりだ!」 「結局それかよ!」 その日の夜、魏嬰達は揚羽屋へと向かった。 「ようこそいらっしゃいました。さぁ、“楓の間”へどうぞ。」 魏嬰達は店主に案内され、太夫が待つ座敷へと向かった。 そこには、天女のように美しい太夫の姿があった。 「ようこそ、いらっしゃいました。どうぞ、ごゆるりとお過ごし下さいませ。」 それから魏嬰達は、美味い酒と料理に舌鼓を打った。 「いやぁ~、美人に囲まれて飲む酒は美味いなぁ。」 すっかり上機嫌となった魏嬰は、ちらりと自分の隣に座っている藍湛の方を見ると、彼は静かに猪口の中の酒を飲み干していた。 「お~い藍湛、大丈夫か?」 「うん。」 そう言った藍湛は、いつの間にか左右逆の足袋を履いていた。 (あれ、何でこいつ足袋を・・) 「あら、どないしはりました?」 「いやぁ、それが・・」 「藍の二の若様、大丈夫なのか?もう、帰らせた方が・・」 「触るな。」 「え?」 突然、藍湛が魏嬰と江澄との間に割って入って来た。 「すいません、何処か休める所ないですか?」 「それでしたら、隣のお部屋へどうぞ。」 「ありがとうございます。」 女中に案内され、魏嬰は藍湛と共に奥の部屋へと向かった。 「今、お水を持って参ります。」 「ありがとうございます。」 部屋から女中が居なくなり、藍湛は魏嬰に抱きついた。 「おい、急にどうしたんだ?」 「わたしのだ・・」 「は?」 「わたしの・・」 そう呟いた藍湛は、魏嬰に抱き着いたまま眠ってしまった。 (あ~あ、困ったな・・) 「おい、大丈夫か?」 「江澄、済まないが藍家に文を出してくれないか?」 「わかった。」 「俺はここで藍湛の世話をしているよ。」 (そうは言ってみたものの、どうすればいいのか・・) このまま藍湛を部屋に寝かせたまま黒谷へと戻ろう―そう思った魏嬰が藍湛を布団に寝かせようとしたが、彼は自分にしがみついたまま離れようとしなかった。 「おいおい、どうしたんだ?」 「傍に居て。」 「もう、しょうがないなぁ。」 その日の夜、魏嬰は一晩中藍湛と共に部屋で休んだ。 「そうか。わざわざ伝えに来てくれてありがとう。」 「いえ・・」 「忘機は昔から何を考えているのかわからないが、どうやらあの子は魏公子の事が気になっているようだね。」 「は、はぁ・・」 「まぁ、あの子が恋愛に対して奥手だから、温かい目で見守ってやってくれないか?」 「えぇ・・」 (一体、何をしたんだ、魏無羨!) 江澄はそう思いながら、胃がキリキリと痛むのを感じた。 「兄上、只今帰りました。」 「忘機、魏公子は?」 「彼は、自室で休んでおります。」 「そうか。」 「兄上、わたしも部屋で休みます。」 「そうしなさい。」 「お休みなさい。」 藍湛は兄に一礼した後、自室に入って休んだ。 「殿、上様から文が届きました。」 「そうか。ありがとう、そこに置いておいてくれ。」 「はい。」 曦臣は将軍の文に目を通すと、深い溜息を吐いた。 (どうやら、ここに来たのは間違いだったようだね。) 京では、尊王攘夷を声高に叫ぶ岐山藩士の過激派による、幕府要人暗殺などが相次いでいた。 この状況を変える為、江戸から清河八郎ら率いる浪士組が上洛して来たという知らせが曦臣の耳に入ったのは、年が明けて二月経った頃だった。 「なぁ、あいつらは?」 「さぁ・・何でも江戸からやって来た浪士組だとか。」 「へぇ、面白そうだな。」 魏嬰はそう言うと、大広間の様子を見に行った。 するとそこには、紋付羽織姿の男達が真剣な表情を浮かべながら何かを話していた。 その中で一際目立っていたのは、黒髪に紫色の瞳をした男だった。 雪のように白い肌をしたその男は、まるで役者絵から抜き出て来たかのように美しかった。 (へぇ、ああいう綺麗な男が居るんだなぁ。) そんな事を思いながら魏嬰が男を見ていると、彼の視線を感じた男がゆっくりと魏嬰が居る方を振り向いたが、そこに彼の姿はなかった。 「どうした、トシ?」 「いや、何でもねぇ。」 (はぁ、後少しで気づかれる所だった。) 「魏嬰、そこで何をしている?」 「いや、ちょっと大広間の様子が気になって・・」 「そんなの、気にしなくていい。」 そう言った藍湛は、何処か拗ねたような表情を浮かべていた。 (え、何だその顔?) 「おい魏嬰、お前島原で藍の二の若様と一晩過ごしたって本当か?」 「何処から、そんな話を・・」 「いや、みんな噂しているぞ。」 「そうなのか?」 「それで、どうだったんだ?」 「どうだったって?」 「まぁ、後で聞くから!」 (何だあいつ、変だったな・・) 「魏嬰。」 「え、藍湛、まだ居たのか?」 「私は、島原で何かをしたのか?」 「いや、何も・・」 「そうか。」 (一体、あいつは 何をしているんだ?) 揚羽屋では、あの太夫が一人の男と向かい合って座っていた。 「うちに何かご用どすか?」 「藍家の若様方に助けられたんは、本当か?」 「へぇ。」 「そうか。これから、藍家の若様方を“利用”するのや、わかったな?」 「そないな事・・」 「出来へんとは言わせへんぞ。お前には色々と“借り”があるんやからなぁ。」 男はそう言うと、意地の悪い笑みを口元に浮かべた。 「お前だけが頼りなんや、東雲。」 |